火の神話学 第3章 神話の中の火
#### 1 火の神カグツチの誕生と殺戮
『古事記』によれば、イザナギとイザナミは結婚してまず国々を生み、その後に神々を生んだ。その最後に生まれたのが、(火ノ)ヤギハヤヲであり、別名(火ノ)カガビコ、(火ノ)カグツチといった。
火の神を生む代わりにイザナミは死を迎える。そして、それを嘆き悲しんだイザナギは逆上し、火の神カグツチを斬り殺す。このとき飛び散ったカグツチの血や死体から、様々な神々が生まれた。
この壮絶な物語が描くものは一体なにか。
昔から諸説入り乱れたきたこのくだりに、火の観点から考察していく。
以下、私なりの、"火の神カグツチの誕生と殺戮"についての解釈を述べることにしよう。便宜的に大きく三つのテーマを掲げることにする。
1 カグッチの誕生
2 カグッチの殺戮
3 カグツチの血と死体から生じたもの
まずカグツチの誕生について。イザナキとイザナミの性交によって生じた。火鑽法のところで見たように、古代人にとって火鑽臼と火鑽杵を摩擦することによって火を生み出すのは、人間の男女が性交することによって子どもをつくるのと同じように思えたに違いない。つまり、大切なものは異なる性の結合によって得られる、ということだ。
考えてみれば、イザナギとイザナミという兄妹の夫婦が性交によって国々と神々を生み出してきたわけで、それは自然な営みの結果であった。しかし、最後に火の神カグツチを生むことで、それまでとは異次元の段階に立ち至ったといえるだろう。
つまり、それまでの自然だけの次元に対して、火の登場は文化 の段階に移行することを意味している。第一章の料理のところと第二章の「火の保持と更新」で見たように、火の変性作用と媒介作用を知ることによって、人間は動物の次元から人間の次元に飛躍したのであった。
火の神カグツチを生むことによって、イザナキとイザナミは、それまでの自然的な世界のあり方を、文化的存在へと変化させなければならなかったのである。西郷信綱の表現.を借りるなら、 「火神の誕生はシンタックスを変える一つの大事件であり」、「まことに火の発明により人間は塾食の道を知り、いわば文化の段階に決定的に突入した」のである。
その急激な移行に伴う困難さを如実に示すものが、イザナミの死であり、イザナギの悲嘆と逆上であり、火の神カグツチの殺戮であった。
カグツチの誕生は、自然から文化への移行を示していたという。
この仮設が正しいなら、食糧生産革命に相当する大変革を、ただの神話とも読める『古事記』は、しっかりと伝えていたことになる。 古事記の著者さん、ここまで読み取ってもらったからいいようなものの、もっと分かりやすく伝えてくれませんかね!
むしろ、あえて分かりにくくしたのではないかと思えるくらい。
第2テーマ、カグツチの殺戮。
つまり、父による殺戮にもかかわらず、というよりも次に見るように、父による殺戮によって、火は直ちに神々の世界に定着したかのように見える。
「斬る血そそきて、石礫、樹草に染まる。これ草木、沙石の自づから火を含む縁なり」。
この引用のうち、少なくとも石についての記述は、火打石を用いる打撃法を連想させるものだ。もしそうだとするならば、カグツチの誕生からは摩擦法による発火を、その死からは打撃法による発火を、読み取ることができることになる。
これはまぁ、こじつけ感はある。
#### 2 カグツチの血と死体から何が生じたか
カグツチの血から生じたものは多数あるが、大きく以下3つに分類することができる
剣の神
雷の神
水の神(蛇身)
興味深いのは、このような蛇儀礼と同様な考え方が、古代ギリシアにおいても、さらには中世のキリスト教世界においても見られた、とヴァールブルクが実証的に論じていることである。
(中略)
蛇と稲妻の類似性は世界的に広く認知されている、と考えてよいだろう。
とするならば、カグツチの血から生じた剣、雷、蛇の三者は、同一の神話的範疇に属するものだといえる。とりわけ、その中心に位置する雷を考えるなら、やはり火の神カグツチの本性は、これらに受け継がれていると見ても差し支えないはずである。
この仮設は正しいには正しいのかもしれない。正しいならとても興味深い。
しかし、火ではない要素から成り立った神話もあるはずで、本書にはその比較がないので、論が空回っているように思える。
このあたりをテーマにしたマンガに、城平京『絶園のテンペスト』がある。 次に、カグツチの死体から生じたもの。
8つの体の部位から、8つの山の神が生じているのだ。
(中略)
ではなぜ、火の神カグツチの死体から、山の神が生じたのか
さて、ごく自然に火と山の関係を考えるなら、、第一に浮かんでくるのは、焼畑のことだろう
そうかな…?
焼畑の話ばかりで、これも自説に寄せようとしているようで、客観性を欠く考察。
#### 3 世界の神話と火の起源
この本でフレイザーは、人類は火に関して次のような連続する三つの段階を経てきたという。(1)火のない時代、(2)火を使用した時代、(3)火を燃しつけた時代、である。
(中略)
フレイザーはこの三つの段階に基づいて世界各地の神話を分類しているのだが、われわれは、本書における論の展開に即した形での分類を試みてみたいと思う。それは大きく分けると以下の四つになる。①元来、火は人間のものではなかった、あるいは人間のところにはなかった。②それでは、火はどこにあったのか。次に、③誰が火を人間にもたらしたのか最後に、④人間は火をどのように作り、保持したか。
①
このように見てくると、世界各地の民族が元々火は人間の手元にはなかった、と考えているのがよく分かる。
②
既に①で引用した文章の中にも、天空や神のところに火があった、という考え方が表現されている。
③
これについては、大別して二つの考え方が見られる。第一は特定の人物や神、つまりプロメテウスに代表されるような文化的英雄である。第二は、さまざまな動物である。
(中略)
ここで大変興味深いのは、これらの動物たちが協力して(リレーして)、人間のところへ火を運んできた、という神話が多く語られていることだ。
④
このようなさまざまな発火法によって手にした火を、人間はどのように保持するかという点については、神話が詳しく語ることはない。もう少し時代が進んで炉などが登場するようになると、保持の方法や誰が保持するのかが問題になってくるように思える。
#### 4 プロメテウス神話
プロメテウス神話について、ヴェルナンは以下のように分析する。
まずこの話は、古代ギリシア人の行っていた儀礼=「流血供犠」を正当化するためのものだ、とヴェルナンは言うこの儀礼では、神々と人間のコミュニケーションを確立するために、祭壇で火を燃やし生贄である獣を焼く。その煙と一緒にたく香料の香が天まで登り、人間と神々との世界の間に道が開かれ、神と人間の交流が成立する。
しかしそれは、この儀礼が行われる毎に、神と人間との間には絶対に越えられぬ区別があることを意味するものでもあった。つまり、流血供犠における神々と人間との共食において、両者の本質的相違が明らかになるからであった。
人間は、獣の食べられる部分、肉と内臓を取り分とする。それに対し神々は、食べられぬ骨を自らの取り分とする。しかも骨が燃やされ煙となって、「いわば昇華された形において神々のもとに届く」。つまり、神々の分け前は「純化された腐らぬものであり、死とまったく無縁なものである」。
人間の分け前は食べられるものだが、それは死を象徴するものでもある。何故なら、これらの肉と内臓は腐敗するものであり、同様に人間もやがて死ななければならぬ存在であるから。換言すれば、「人間は食べられる部分を得ることによって、その反面食べずには生きて行くこ とができぬ運命を担うことになった」のだ。
これは面白い。
しかし、私はそれよりも、ここでコンピューターと人間の関係性との類似性を想像してしまった。
コンピューターの取り分である「骨」に相当するのは電力。交流の道たる「香料」の調合は、プログラミングで行われ、機械語(0と1の羅列)への変換儀式を行うことでコンピューターと人間の対話が成立する。これは現在、実際に世界中で行われていることである。
また、今後の社会は、AIが人間に成り代わる要素が増していくと言われている。AIは既に、物語を創造し、音楽を生み出す能力を得た。モノを食べないコンピューターが、どこに向かって進化していくのか。若干の恐ろしさを感じると同時に、この恐ろしをAIが感じることは出来ない、と楽観視して安心したいとも思う。
おそらくこれに関係する内容が書かれているだろう『ホモ・デウス』を読まなきゃと毎日のように思っているが、本書の考察が終わるまで読まないと決めている。
最後にヴェルナンは、結論的に次のように言う。
「プロメテウスによる最初の供犠の結果として、人間は爾後、供犠を捧げることによって神とコミュニケートする存在とされ、また彼らの取り分となった肉を火でもって料理して食べねばならぬ存在とされた。そしてこのプロメテウスの行為に対するゼウスの報復の結果として、人間は農業を行い労働を行うことによって、大地から人間に特有の食物である穀物を生じさせ、それを食べねばならなくなった。そして人間は最後にゼウスからパンドラを送られた結果、女性の腹を使い結婚によって自分の種を再生産しなければならぬ運命を与えられた。すなわち、結婚と農業と料理された食物と犠牲の儀式、この四つがプロメテウスの行為が行われた後の人間の条件を規定している。」
つまり、これが人間存在の基本的特性であり、それは一方で人間を神と区別するとともに、他朴で人間と獣を区別するものでもあるのだ。
著者というより、ヴェルナンがすげえ。
パシュラール
「火をもたらす者は、光を、精神の光――隠喩的な意味での明るさーーすなわち意識というものをもたらすのだ。神々から、プロメテウスが人間たちに与えるために盗んだのは意識なのである。火―光―意識の賜物は、人間に新しい運命の途を開く。この意識という宿命、この精神性という宿命の中で自らを維持するのはなんと辛い務めであろう。」